松村雅亘さんに寄せて
2014年 02月 01日
そのギターの音には輝きが有りました。
でもそれは夜空に一点で輝く星のような光ではなく
厚みがあり、揺らぎあり、様々に形を変えるオーロラの様な光であり音でした。
決して弾き易い楽器ではありませんでした。松村さん自身が「鉄下駄」と仰っていた通り、それは楽器を持つ演奏者一人一人にとっても試練であっただろうしこれからも有り続けるでしょう。ただ張りが強いとかそういう話ではありません。松村ギターはイメージを持たない奏者に対して決して心を開いてくれないのです。松村ギターを持つ者はギターの技術と共に音楽に対しても真摯に正面から向かい合う姿勢を楽器から要求されます。そしてその戦いから逃げ出さなかった人、音楽に対するどうしようもない飢えを持った人だけにようやく心を許してくれます。そしてその時に放たれる音は他のどのような楽器からも感じ取れないような楽器と魂が共鳴するような美しい輝きです。
思えば松村さんはある程度形の整った、でもそこに感動がないような音楽を聴いても表面的には褒めてくれていてもどこかそっけない態度を取っていましたが、心を振るわすような音楽を聞いた時、あるいはマスタークラス等で自分の限界を打ち破るような挑戦を見せてくれた生徒に対してはそれはもう熱烈な喜びを表現してくれる方でした。よくよく考えればそれは正に松村ギターの特性とそのまま一致していました。
芸術の世界に身を置きながらも、一人の社会人として生きて行く事の厳しさを誰よりも知っている方でした。自身の求める芸術の世界とは別に、世の中には世の中の流れがある事を自覚し、その流れの行く末を注意深く見守るシビアな商人としての目を持ちながらも、自身の心にある芸術をいつも自分の軸の中心に置きどんな状況でも芸術家でいる事の出来た方でした。
松村さんに初めてお会いしたのは第一回の美山ギター音楽祭の時でした。その時の松村さんの印象は正直言ってあまりいいものではありませんでした。そのポジティブで圧倒的なエネルギーを正面から見つめるだけの力と度胸は当時の私にはありませんでした。その時の私はギターのテクニックの事で頭を支配されていて、音楽のイメージはほとんど皆無だったのではないかと思います。
恐らく松村さんの一番嫌いなタイプのギタリストで、そんな演奏者に正直なにも期待はされていなかったと思います。音楽祭の帰りの電車でたまたま松村さんと一緒に二人で帰る事になり、えんえんと説教をされたのを今でも思い出します。
それでも諦めの悪い私は二度、三度と音楽祭に挑戦を続け、壁にぶち当たりながらゆっくりではあったものの手がかりをつかんで少しずつ成長する事が出来ました。そしてそんなのんびりとした成長をしている私を音楽祭の中心であった松村さんは見捨てる事なくそっと見守ってくれていました。毎回ほんの少ししか声をかけて頂けませんでしたが、その言葉はレッスンの現場で起こった事をしっかりと見守り、そして何が起こって、何にもがいているのかを正確に把握されている人にしか発言し得ない言葉ばかりでした。
そして最後の記憶として残っているのは今から二年前のグロンドーナとのマスタークラスの後の言葉です。
「大きな仕事をやり遂げましたね」
その日のレッスンは自分の表現したい音楽を当時の力で全力で表現することの出来た素晴らしい時間だったのですが、その時の事を松村さんは自分のことの様にとても喜んでくださいました。あの言葉が大きな自信となり、それからの自分の音楽人生の転機となる新たなスタートを切ることが出来たと思います。本当にこの言葉でどれだけ救われたか分かりません。本当にありがとうございました。
これまで松村ギターを持ちたいな…と思った事は一度や二度ではないです。ただあのでっかい音楽と真っ正面からぶつかり合い続ける戦いをこれからずっと続けないといけないと考えると、正直腰が引けてしまいました。あともうちょっと上手くなったら、あともう少し自分に自信が持てたら………そんな事をずっと考えながら、とうとうこんな日が来てしまいました。
松村さんは現代の巨匠といえるくらいの領域に到達した、(世界的に見ても)数少ない製作家の一人であると思います。そんな方の心の中を推し量るのもおこがましいのですが、本人にとってはようやく美の世界の入り口に足をかける事が出来た、と考えていたのではないでしょうか。
「ようやく入り口に辿り着いた、ここからさらに奥深い世界へと入って行ける」
とそう考えておられたのではないかと思えてならないのです。今年の最後の年賀状にも音楽と音作りの深さを痛感していると書かれておられました。まだまだこれから本当に世界に誇れるような銘器を作り出されていたはずと思うと悔しくてならないです。
「ソルとバッハの音楽を美しく表現出来る楽器を作りたい」
「それが本物であるならば、それ以上の言葉は必要がない。その楽器に(音楽に)全てが込められている筈だから」
それが松村さんの口癖でした。
今はもう二度と聞いてもらう機会を設ける事は出来ないですが、いつか胸を張ってお聞かせ出来る日が来る様に(それはもうどれくらい先になるのかも分からないですが)音楽に精進していきたいと思います。
ご冥福をお祈りします
でもそれは夜空に一点で輝く星のような光ではなく
厚みがあり、揺らぎあり、様々に形を変えるオーロラの様な光であり音でした。
決して弾き易い楽器ではありませんでした。松村さん自身が「鉄下駄」と仰っていた通り、それは楽器を持つ演奏者一人一人にとっても試練であっただろうしこれからも有り続けるでしょう。ただ張りが強いとかそういう話ではありません。松村ギターはイメージを持たない奏者に対して決して心を開いてくれないのです。松村ギターを持つ者はギターの技術と共に音楽に対しても真摯に正面から向かい合う姿勢を楽器から要求されます。そしてその戦いから逃げ出さなかった人、音楽に対するどうしようもない飢えを持った人だけにようやく心を許してくれます。そしてその時に放たれる音は他のどのような楽器からも感じ取れないような楽器と魂が共鳴するような美しい輝きです。
思えば松村さんはある程度形の整った、でもそこに感動がないような音楽を聴いても表面的には褒めてくれていてもどこかそっけない態度を取っていましたが、心を振るわすような音楽を聞いた時、あるいはマスタークラス等で自分の限界を打ち破るような挑戦を見せてくれた生徒に対してはそれはもう熱烈な喜びを表現してくれる方でした。よくよく考えればそれは正に松村ギターの特性とそのまま一致していました。
芸術の世界に身を置きながらも、一人の社会人として生きて行く事の厳しさを誰よりも知っている方でした。自身の求める芸術の世界とは別に、世の中には世の中の流れがある事を自覚し、その流れの行く末を注意深く見守るシビアな商人としての目を持ちながらも、自身の心にある芸術をいつも自分の軸の中心に置きどんな状況でも芸術家でいる事の出来た方でした。
松村さんに初めてお会いしたのは第一回の美山ギター音楽祭の時でした。その時の松村さんの印象は正直言ってあまりいいものではありませんでした。そのポジティブで圧倒的なエネルギーを正面から見つめるだけの力と度胸は当時の私にはありませんでした。その時の私はギターのテクニックの事で頭を支配されていて、音楽のイメージはほとんど皆無だったのではないかと思います。
恐らく松村さんの一番嫌いなタイプのギタリストで、そんな演奏者に正直なにも期待はされていなかったと思います。音楽祭の帰りの電車でたまたま松村さんと一緒に二人で帰る事になり、えんえんと説教をされたのを今でも思い出します。
それでも諦めの悪い私は二度、三度と音楽祭に挑戦を続け、壁にぶち当たりながらゆっくりではあったものの手がかりをつかんで少しずつ成長する事が出来ました。そしてそんなのんびりとした成長をしている私を音楽祭の中心であった松村さんは見捨てる事なくそっと見守ってくれていました。毎回ほんの少ししか声をかけて頂けませんでしたが、その言葉はレッスンの現場で起こった事をしっかりと見守り、そして何が起こって、何にもがいているのかを正確に把握されている人にしか発言し得ない言葉ばかりでした。
そして最後の記憶として残っているのは今から二年前のグロンドーナとのマスタークラスの後の言葉です。
「大きな仕事をやり遂げましたね」
その日のレッスンは自分の表現したい音楽を当時の力で全力で表現することの出来た素晴らしい時間だったのですが、その時の事を松村さんは自分のことの様にとても喜んでくださいました。あの言葉が大きな自信となり、それからの自分の音楽人生の転機となる新たなスタートを切ることが出来たと思います。本当にこの言葉でどれだけ救われたか分かりません。本当にありがとうございました。
これまで松村ギターを持ちたいな…と思った事は一度や二度ではないです。ただあのでっかい音楽と真っ正面からぶつかり合い続ける戦いをこれからずっと続けないといけないと考えると、正直腰が引けてしまいました。あともうちょっと上手くなったら、あともう少し自分に自信が持てたら………そんな事をずっと考えながら、とうとうこんな日が来てしまいました。
松村さんは現代の巨匠といえるくらいの領域に到達した、(世界的に見ても)数少ない製作家の一人であると思います。そんな方の心の中を推し量るのもおこがましいのですが、本人にとってはようやく美の世界の入り口に足をかける事が出来た、と考えていたのではないでしょうか。
「ようやく入り口に辿り着いた、ここからさらに奥深い世界へと入って行ける」
とそう考えておられたのではないかと思えてならないのです。今年の最後の年賀状にも音楽と音作りの深さを痛感していると書かれておられました。まだまだこれから本当に世界に誇れるような銘器を作り出されていたはずと思うと悔しくてならないです。
「ソルとバッハの音楽を美しく表現出来る楽器を作りたい」
「それが本物であるならば、それ以上の言葉は必要がない。その楽器に(音楽に)全てが込められている筈だから」
それが松村さんの口癖でした。
今はもう二度と聞いてもらう機会を設ける事は出来ないですが、いつか胸を張ってお聞かせ出来る日が来る様に(それはもうどれくらい先になるのかも分からないですが)音楽に精進していきたいと思います。
ご冥福をお祈りします
by onkichi-yu-chi
| 2014-02-01 04:08
| おんきち